価格が折り合わないのは「普通」のこと
M&Aの交渉で売り手と買い手の希望価格がピタリと一致することは、まずありません。
中小企業庁の調査によれば、M&Aが成約に至らなかった理由の上位に「価格の折り合いがつかなかった」が常にランクインしています。体感では、初回提示額のギャップが30〜50%ある案件が大半です。
このギャップは不合理なものではなく、むしろ構造的に発生します。売り手と買い手は、そもそも違うものを見ているからです。
売り手はなぜ高く見積もるのか
売り手オーナーが自社を高く評価する背景には、合理的な理由と感情的な理由の両方があります。
合理的な理由
- 自分しか知らない「隠れた収益源」がある(節税目的で利益を圧縮している等)
- 顧客基盤やブランド力など、財務諸表に現れない資産を把握している
- 来期以降の受注見込みや新規契約の情報を持っている
感情的な理由
- 20年かけて育ててきた事業への愛着
- 「自分の人生の値段をつけられている」という感覚
- 従業員を守りたいという責任感から「安売りはできない」と考える
特に創業オーナーの場合、事業は人生そのもの。経済合理性だけで価格を議論すると、感情面で折り合いがつかなくなるケースが少なくありません。
買い手はなぜ安く見積もるのか
買い手が保守的な評価をする理由も明確です。
投資回収の視点
- 買収資金を何年で回収できるかが最大の関心事
- 投資回収期間が5年を超えると、リスクが高いと判断される
不確実性への警戒
- オーナー交代後に顧客が離れるリスク
- キーマン(優秀な従業員)の退職リスク
- 簿外債務や未開示のリスクへの懸念
交渉上のポジショニング
- 最初から高い金額を提示すると、そこからの値下げが難しくなる
- 複数案件を比較検討しているため、1案件に全力投球しにくい
買い手にとって、M&Aは「投資」です。投資家はリスクに対して慎重になるのが自然であり、売り手が期待する価格との間にギャップが生まれるのは避けられません。
交渉が破綻する3つのパターン
バリュエーション交渉が決裂する典型的なパターンを紹介します。
パターン1:数字の議論に終始する
「うちの会社は1億だ」「いや、7,000万が限界だ」。こうした数字の押し付け合いは、互いの面子がかかるため妥協点が見つかりにくくなります。金額そのものではなく、「なぜその金額なのか」のロジックを共有することが先決です。
パターン2:感情と論理が混在する
売り手が「この会社には数字では測れない価値がある」と主張し、買い手が「財務データがすべてです」と返す。話が噛み合わないまま平行線になる。このパターンでは、仲介者が売り手の感情的な価値を受け止めつつ、経済条件の議論に翻訳する役割を果たす必要があります。
パターン3:情報の非対称性が解消されない
売り手が重要な情報を出し渋り、買い手がリスクを過大評価する。結果として買い手の提示額が低くなり、売り手は「正当に評価されていない」と不満を抱く。情報開示の順序とタイミングを仲介者がコントロールできるかが鍵を握ります。
価格ギャップを埋める5つの実務テクニック
交渉の現場で実際に使われている手法を紹介します。
1. アーンアウト条項
買収価格の一部を、買収後の業績に連動させる仕組みです。
たとえば、基本価格を7,000万円とし、買収後2年間で営業利益が年間2,000万円を超えた場合、超過分の50%を追加で支払う。売り手が自社の将来性に自信があるなら、この条件を受け入れやすい。買い手もリスクを軽減できます。
2. 役員報酬・コンサルティング契約による補填
譲渡価格を下げる代わりに、売り手オーナーに顧問契約を結び、月額50万円を2年間支払う。実質的に1,200万円が追加されるため、売り手のトータルの受取額は大きくなります。買い手にとっても、引継ぎ期間のリスクヘッジになるため合理的です。
3. 段階的な株式譲渡
初年度に51%を譲渡し、2年後に残り49%を譲渡する方式。2回目の譲渡価格を業績連動にすることで、アーンアウトと同様の効果が得られます。売り手がしばらく経営に関与し続けるケースに適しています。
4. 表明保証条項の活用
買い手が懸念するリスクを売り手が「表明保証」でカバーすることで、リスクプレミアム分の値引きを回避する手法。たとえば「未開示の訴訟リスクは存在しない」と売り手が保証し、違反時には損害賠償に応じる条項を契約に入れます。
5. 非価格条件での調整
価格以外の条件で売り手の満足度を高める方法も有効です。
- 会社名の存続を保証する
- 従業員の雇用条件を維持する期間を明示する
- 売り手の引退セレモニー(社員への挨拶の場)を設ける
金額だけで折り合いがつかない場合、こうした「非金銭的な価値」が意外と大きな交渉材料になることがあります。
交渉を成功させるための心構え
バリュエーション交渉で最も重要なのは、「正しい価格」を追求するのではなく、「双方が納得できる取引条件」を設計するという発想です。
売り手にとっての100点と、買い手にとっての100点は違います。価格を下げる代わりに引継ぎサポートを充実させる、短期の支払い額を抑える代わりに業績連動で上乗せする。こうした設計の工夫が、成約率を大きく左右します。
まとめ
バリュエーションの食い違いは、M&Aのプロセスにおいて避けられない局面です。売り手は感情的価値を含めて高く評価し、買い手は投資リスクを織り込んで低く評価する。この構造的なギャップを理解したうえで、アーンアウトや段階的譲渡といったスキームを使い、価格だけに頼らない交渉設計を行うことが、成約への最短ルートです。