美容室M&Aは「人」と「場所」の取引
美容室のM&Aは、数字だけでは判断しにくい。財務諸表上の売上や利益はもちろん重要だが、その売上を支えているのはスタイリスト個人の技術と人柄、そして立地である。言い換えれば、美容室M&Aとは「この人に切ってほしい」という顧客の信頼と、「この場所だから通える」という利便性を、売り手から買い手へ移転する取引だ。
厚生労働省の統計によると、美容室の数は全国で約26万店。コンビニの約4.5倍にのぼる。競争が激しい市場で生き残っている美容室には、それなりの理由がある。その「理由」を正しく評価できるかが、M&A成否の分かれ目になる。
譲渡価格の相場と倍率
美容室のバリュエーションは月商の12〜24ヶ月分が一般的な基準だ。飲食店の6〜12ヶ月分に比べて倍率が高い。固定客の来店サイクルが安定しているため、将来の売上予測が立てやすいことが理由である。
| 条件 | 月商倍率の目安 |
|---|---|
| スタイリスト離職リスク高、賃貸契約短い | 10〜14倍 |
| スタイリスト残留見込あり、固定客多い | 14〜20倍 |
| 複数店舗、ブランド力あり、仕組み化済み | 20〜24倍以上 |
月商200万円で倍率15倍なら3,000万円、20倍なら4,000万円だ。内装・設備の造作価値は別途評価する場合もあれば、月商倍率に含める場合もあるため、売り手との認識をすり合わせておく必要がある。
1席あたりの月商も有用な指標となる。セット面5席で月商200万円なら1席あたり40万円。この数字が30万円を下回ると、席の稼働率に改善余地があるか、客単価が低いかのどちらかだ。
立地の評価
美容室にとって立地は生命線である。ただし、飲食店のように「駅徒歩3分以内」が絶対条件というわけではない。美容室は予約制が主流なので、多少駅から離れていても固定客が通い続ける。
立地評価で見るべきは以下の点だ。
商圏の人口動態。半径1km圏内の居住人口、年齢構成、世帯構成を確認する。ターゲット層が多い地域であれば、スタイリストの入れ替わりがあっても集客を維持しやすい。人口減少が顕著なエリアは長期的に厳しい。
競合密度。半径500m以内に何店舗の美容室があるかを数える。都心部で5店舗以上が密集しているエリアは、価格競争に巻き込まれるリスクがある。一方で、住宅街の中にぽつんと1店舗だけ存在するような立地は、競合が参入しにくく防御力が高い。
賃貸借契約の条件。残存期間、更新料、退去時の原状回復義務を確認する。美容室の内装工事は500万〜1,500万円規模になるため、契約更新ができなければ投資が回収できない。定期借家契約の場合は特に注意すべきで、残存期間が3年未満なら譲渡価格の交渉材料にもなる。
顧客リストの評価方法
美容室の資産価値の大部分は顧客リストにある。ただし、顧客数だけでは評価できない。重要なのは「今も通っている顧客が何人いるか」と「その顧客がどれだけ使ってくれるか」だ。
実務的には、以下の区分で顧客を分類する。
- Aランク: 直近6ヶ月で3回以上来店、客単価1万円以上
- Bランク: 直近12ヶ月で2回以上来店
- Cランク: 12ヶ月以上来店なし(休眠顧客)
AランクとBランクの合計がアクティブ顧客数となる。この数字に平均客単価と年間来店回数を掛ければ、顧客基盤からの年間売上予測が出る。
たとえばAランク100人(客単価12,000円、年6回来店)、Bランク200人(客単価8,000円、年3回来店)であれば、年間売上予測は100人 x 12,000円 x 6回 + 200人 x 8,000円 x 3回 = 720万円 + 480万円 = 1,200万円。これが「顧客資産」として計算可能な売上基盤となる。
POSデータや予約管理システムのデータを基に分析できるが、紙のカルテだけで管理している美容室もまだ多い。その場合はカルテの棚卸しが必要になるため、DD工数が増える点も考慮しておく。
最大のリスクはスタイリストの離職
美容室M&Aで最も頻繁に起こる問題が、スタイリストの離職だ。美容師は技術職であり、独立志向が強い。オーナーが変わるタイミングで「自分の店を持とう」と考えるスタイリストは少なくない。
しかも、スタイリストが辞めると顧客もついていく。指名率の高いスタイリストが抜けた場合、その担当顧客の70〜80%は追いかけて他店に流れるとされている。月商200万円の美容室でエーススタイリストが売上の40%を担っていたら、離職で月80万円の売上が消えることになる。
対策は複数ある。
残留インセンティブの設計。クロージング後6ヶ月〜1年間の残留を条件に、ボーナスを支給する契約を結ぶ。金額は年収の10〜20%程度が目安だ。この費用はM&Aの付帯コストとして織り込んでおく。
待遇改善の提示。給与テーブルの見直し、社会保険の完備、休日数の増加など、前オーナーの体制では実現できなかった改善を具体的に示す。美容業界は労働環境への不満が離職理由の上位にあるため、待遇改善は引き留めに直結する。
競業避止義務の設定。売り手オーナーに対しては当然だが、主要スタイリストとの雇用契約にも合理的な範囲で競業避止条項を入れることを検討する。ただし、憲法上の職業選択の自由との兼ね合いがあるため、地域・期間・対価の設定は弁護士に相談すべきだろう。
美容室M&Aの財務チェックポイント
美容室特有の財務面の確認事項をまとめる。
材料費率。美容室の材料費(カラー剤、パーマ液、シャンプー等)は売上の8〜12%が目安だ。15%を超えていれば仕入先の見直しか、メニュー価格の設定に問題がある。
人件費率。スタイリストの給与は歩合制が多く、売上の40〜50%が人件費に消える。業務委託契約のスタイリストが混在している場合、社会保険料の負担有無で実質コストが変わる点に注意すべきだ。
設備の更新時期。シャンプー台、セット椅子、ドライヤーなどの設備は5〜10年で更新が必要になる。購入時期を確認し、買収後に発生する設備投資を見積もっておかなければならない。
美容室M&Aに向いている買い手
美容室M&Aで成功しやすいのは、すでに美容室を経営しているオーナーが2店舗目、3店舗目として買収するケースだ。採用コスト、教育コスト、仕入れの交渉力でスケールメリットが効くため、単独オーナーよりも収益性を高めやすい。
異業種からの参入も増えているが、この場合は既存のスタイリストと店長にオペレーションを任せる体制が前提となる。現場に入らずマネジメントに徹する覚悟と、美容業界特有の商習慣を理解する姿勢がなければ、スタッフとの信頼関係構築は難しいだろう。
美容室は「箱」を買うのではなく、そこに通う顧客とそこで働くスタッフとの関係性を買う取引である。数字の精査と同時に、現場の空気を肌で感じる作業を怠らないことが、結果として投資判断の精度を高める。