SaaS M&Aは「ストック収益」に値段をつける取引
SaaS事業の売買は、他の業種のM&Aとは根本的に評価の考え方が異なる。飲食店やECサイトが過去の実績ベースで値付けされるのに対し、SaaSは将来にわたって継続する収益、つまりサブスクリプション収益の持続性に値段がつく。
MRR(Monthly Recurring Revenue、月次経常収益)100万円のSaaS事業があったとする。この事業の価値は、顧客が今後どれだけ長く使い続けるか、新規顧客がどれだけ増えるかによって決まる。だからこそ、チャーンレートが評価の最重要指標になる。
バリュエーションの基本構造
SaaS事業の譲渡価格はMRRの24〜48倍が相場だ。ARR(年間経常収益)に換算すると、ARRの2〜4倍に相当する。
| 条件 | MRR倍率の目安 |
|---|---|
| 月次チャーンレート3%以上、成長鈍化 | 18〜24倍 |
| 月次チャーンレート2〜3%、安定成長 | 24〜36倍 |
| 月次チャーンレート2%未満、高成長 | 36〜48倍 |
| NRR 120%以上、市場優位性あり | 48倍以上 |
MRR 50万円の小規模SaaSなら1,200万〜2,400万円、MRR 300万円なら7,200万〜1億4,400万円がレンジとなる。ARR 1億円を超えてくると、VCやPEファンドが買い手に加わり、倍率はさらに上がる傾向にある。
注意すべきは、MRRの中身だ。年間契約の月割りなのか、月ごとの課金なのかで解約リスクが異なる。年間契約比率が高いほど収益の安定性は増すが、更新率がわからなければ翌年のMRRは読めない。
評価の鍵を握る3つの指標
1. チャーンレート(解約率)
SaaS事業の生死を分ける指標がチャーンレートだ。月次チャーンレートが3%の場合、年間では約30%の顧客が離脱する計算になる。毎年3割の顧客を失いながら成長するのは、バケツの底に穴が開いた状態で水を注ぎ続けるようなものである。
買収判断の目安として、月次チャーンレート2%未満を基準にすべきだ。エンタープライズ向けSaaSなら月次1%未満が標準的で、SMB向けでも3%を超える事業には慎重になる必要がある。
チャーンレートの計測期間にも注意が必要だ。直近3ヶ月だけが良い数字で、12ヶ月通算だと悪化しているケースは珍しくない。最低12ヶ月分のコホート分析データを要求すべきだろう。
2. LTV/CAC比率
LTV(顧客生涯価値)をCAC(顧客獲得単価)で割った比率は、SaaSビジネスの収益効率を測る指標になる。一般的にLTV/CACが3倍以上あれば健全とされる。
たとえば月額1万円のSaaSで平均利用期間が24ヶ月なら、LTVは24万円。このとき、CACが8万円以下であればLTV/CAC 3倍を満たす。CACが15万円を超えているような事業は、広告効率が悪いか、プロダクトの訴求力に問題がある可能性が高い。
3. NRR(売上維持率)
NRR(Net Revenue Retention)は既存顧客からの収益がどう推移しているかを示す。新規獲得を止めても、既存顧客のアップセルやプラン変更で収益が維持または増加するなら、NRRは100%を超える。
NRR 120%以上のSaaS事業は非常に高い評価がつく。顧客が勝手に単価を上げてくれるビジネスモデルは、成長のためにCACをかけ続ける必要がないからだ。逆にNRR 90%未満の事業は、既存顧客だけでは収益が縮小し続けることを意味する。
技術的デューデリジェンスの重要性
SaaS M&Aでは、財務DDと同等かそれ以上に技術DDが重要だ。コードの品質やインフラの構成が、買収後の運営コストを大きく左右するからである。
コードベースの品質。テストカバレッジ、CIパイプラインの有無、コードレビューの運用状況を確認する。テストが書かれていないSaaSは、機能追加やバグ修正のたびに既存機能が壊れるリスクを抱えている。テストカバレッジ60%未満の場合、買収後にリファクタリング工数が発生することを見込むべきだ。
インフラコスト。AWS、GCP、Azureなどのクラウドインフラ費用がMRRに対してどの程度の比率を占めているかを確認する。MRRの20%以上をインフラに使っている場合、設計に非効率がある可能性がある。顧客数の増加に対してインフラ費用がリニアに増えるのか、スケールメリットが効くのかも重要な確認ポイントだ。
属人性リスク。創業者エンジニアが一人で開発・運用している場合、そのエンジニアが離脱した瞬間に事業継続が困難になる。ドキュメントの有無、デプロイ手順の整備状況、インフラのIaC化(コード管理)の程度を見れば、属人性のレベルは判断できる。
買い手のタイプ別にみる戦略
SaaS事業の買い手は、大きく3パターンに分かれる。
同業のSaaS企業。プロダクトラインの拡充や顧客基盤の統合を目的とした買収。既存の開発チームでコードを引き継げるため、技術リスクを吸収しやすい。倍率は高くなりがちだが、シナジーで回収できる見込みがあれば正当化できる。
PEファンド・ロールアップ型。複数のSaaS事業を買い集め、バックオフィスの統合やクロスセルで価値を高める戦略。MRR 200万〜500万円の中規模SaaSが主なターゲットになる。
個人・小規模法人。MRR 30万〜100万円程度のマイクロSaaSを買い、少人数で運営するパターンだ。開発スキルを持つ個人であれば、運営コストを極限まで下げて高い利益率を実現できる。BATONZやTRANBIで見つかるSaaS案件はこの規模が多く、譲渡価格は500万〜3,000万円程度のレンジとなる。
SaaS M&Aで失敗する典型パターン
よくある失敗は、MRRの数字だけを見て買い、中身を精査しなかったケースだ。
MRR 100万円に見えたが、実際は年間契約の一括払いを月割りしていただけで、更新率が50%だった。チャーンレートが低いと思ったら、解約した顧客をデータから除外して計算していた。こうした数字の操作は、コホート分析の生データを見れば発覚する。売り手の提示するサマリーではなく、管理画面やBIツールの生データへのアクセスを求めることが重要だ。
技術面では、セキュリティの脆弱性を見落とすケースがある。個人情報を扱うSaaSで、暗号化やアクセス制御が不十分な場合、買収後に情報漏洩が発生すれば責任は買い手が負う。セキュリティ監査を省略してはならない。
SaaS事業のM&Aは、数字が明確で比較しやすい反面、その数字の裏にある実態を掘り下げる作業が不可欠だ。表面的なMRRやチャーンレートに惑わされず、コホートデータ、技術負債、顧客の質まで掘り下げた上で、初めて適正な買収価格が見えてくる。