医療・調剤業界の事業承継が急務になっている
医療業界で事業承継の件数が急増している。日本M&Aセンターのデータによると、医療業界における事業承継はここ10年間で17倍に増加した。
背景にあるのは、開業医の高齢化だ。病院の開設者または法人代表者の平均年齢は64.9歳、クリニックや診療所では62.5歳。全産業の社長平均年齢60.5歳と比べても高い。さらに深刻なのは後継者不在率で、医療業界全体では75.9%に達している。全業種平均の53.9%を大きく上回る数字だ。
調剤薬局業界も同様の構図にある。調剤報酬改定のたびに経営環境が変わるうえ、薬剤師の採用難が重なり、単独経営の負担は年々重くなっている。2025年にはアインホールディングスがさくら薬局グループを買収するなど、大手による中小薬局の取り込みが加速している。
医療M&Aは他業種のM&Aとは異なる制度的制約がある。医師免許の要件、医療法の規制、保健所や厚生局への届出など、固有の手続きを理解しておかなければ、案件は前に進まない。
医療法人のM&Aスキーム:出資持分あり・なしの違い
医療法人のM&Aを理解するうえで避けて通れないのが、「出資持分あり」と「出資持分なし」の違いだ。
出資持分ありの医療法人。2007年の第5次医療法改正以前に設立された法人の多くがこれに該当する。出資者は退社時に出資額に応じた持分の払い戻しを請求できる。M&Aでは出資持分の譲渡という形で経営権を移転する。株式会社の株式譲渡に近いイメージで、比較的シンプルに手続きが進む。
譲渡の流れはこうなる。出資持分を新しい経営者に譲渡し、理事長を交代する。法人格が同一のまま経営者が変わるため、保険医療機関の指定や施設基準はそのまま維持される。
出資持分なしの医療法人。2007年以降に設立された法人は原則としてこちら。出資持分の払い戻し請求権がないため、持分の売買という概念が存在しない。
この場合のM&Aは、社員の入れ替えと理事の交代によって実質的な経営権を移転する。具体的には、既存の社員が退社し、新たな社員が社員総会の議決権を取得する。そのうえで理事長を新経営者に交代させる。退職慰労金や事業対価の支払いは別途取り決める。
出資持分なしの法人はM&Aの設計が複雑になりやすい。対価の支払い方法、退職慰労金の算定、法人資産の取り扱いなど、税務面を含めた慎重な設計が求められる。
個人クリニックの承継の流れ
個人開設のクリニックは法人格を持たない。したがって株式譲渡や持分譲渡という手法が使えず、事業譲渡が唯一のスキームとなる。
実務上の流れを時系列で整理する。
承継前の準備(3カ月から6カ月前)
承継先の医師を選定する。クリニックの承継では、引き継ぐ側に医師免許が必要だ。診療科目によっては専門医資格も求められる。承継先が決まったら、諸条件の交渉に入る。
医療機器のリース契約、テナントの賃貸借契約、スタッフの雇用契約など、個別の契約関係を洗い出し、それぞれの引継ぎ方法を確認する。
行政手続き
旧院長が保健所に「診療所廃止届」を提出し、新院長が「診療所開設届」を提出する。厚生局への保険医療機関の指定申請も必要だ。診療日に空白を生じさせないためには、廃止届と開設届のタイミングを同日で合わせる必要がある。
保健所によっては、開設届の事前相談から受理まで数週間かかるケースがある。余裕をもったスケジュール設計が不可欠だ。
患者への説明
院長が変わることは患者にとって大きな出来事だ。「かかりつけ医が変わる」ことへの不安は、想像以上に大きい。引継ぎ期間中に新旧の院長が同時に診療する期間を設けられると理想的だ。
調剤薬局の評価方法と売却相場
調剤薬局のM&Aは医療業界の中でも特に活発な領域だ。薬局のバリュエーションには独自の評価指標がある。
処方箋枚数。月間の処方箋応需枚数は、薬局の収益力を測る最も直接的な指標だ。月1,000枚以上の薬局は安定した収益が見込めるとして、買い手からの関心が高い。
技術料。調剤技術料と薬学管理料の合計額は、薬局の付加価値を示す。後発医薬品調剤体制加算や地域支援体制加算を算定している薬局は、単なる調剤機能にとどまらない価値を持つと評価される。
処方元の集中率。特定の医療機関からの処方箋が全体の何割を占めるかを示す指標だ。集中率が高い薬局は、処方元の医師が引退すると売上が激減するリスクを抱えている。集中率70%以上の薬局は、その分だけ評価が割り引かれる。
売却相場は「時価純資産 + 営業利益の3年から5年分」が目安となる。処方箋枚数が多く、技術料が高く、集中率が低い薬局ほど高い倍率がつく。
具体例を挙げると、売上1.2億円、営業利益650万円、処方箋枚数月1,000枚の薬局であれば、営業権は2,000万円から3,000万円程度の評価になることが多い。これに時価純資産を加えた金額が譲渡価格の目安だ。
医療法特有の規制とM&Aへの影響
医療M&Aには、医療法に基づく固有の規制がある。
非営利性の原則。医療法人は営利を目的としてはならないと定められている。株式会社のように配当を出すことはできず、剰余金の分配も禁止されている。M&Aの対価設計では、この非営利性の枠組みの中で適正な価格を算出する必要がある。
医師免許の要件。クリニックを運営するには管理者として医師免許が必要だ。法人であっても、理事長は原則として医師でなければならない。買い手側が事業会社の場合、医師を確保できるかどうかがM&A成立の前提条件となる。
都道府県知事の認可。医療法人の合併や分割には都道府県知事の認可が必要だ。社員の入れ替えによる経営権移転でも、重要事項として事前に報告が求められるケースがある。
病床規制。病床を持つ医療機関のM&Aでは、地域医療計画における病床数の規制にも注意が必要だ。既存の病床数を維持できるかどうかは、行政との協議次第となる。
院長引退後の患者引継ぎを成功させるには
クリニックのM&Aにおいて、患者の引継ぎは売上の維持に直結する最重要課題だ。
院長との個人的な信頼関係で通院している患者は少なくない。院長が変わった途端に他院に流れるケースは実際に起きている。引継ぎ期間の設計が成否を分ける。
理想的な引継ぎパターン。旧院長が3カ月から6カ月程度、非常勤として残り、新院長と並行して診療する。患者は旧院長の紹介で新院長の診察を受け、徐々に信頼関係を築く。この期間中に、患者の既往歴や治療方針のすり合わせも行われる。
カルテの引継ぎ。電子カルテか紙カルテかで手間が大きく変わる。電子カルテの場合はデータ移行の技術的な問題、紙カルテの場合は保管義務と閲覧権限の問題がある。カルテは医療法上5年間の保管義務があり、個人情報保護の観点からも適切な引継ぎが求められる。
スタッフの継続。看護師や受付スタッフが変わらないことは、患者にとって大きな安心材料になる。特に長年勤務しているスタッフは、患者の顔と名前、性格、通院歴を把握している。こうした人材が残ってくれるかどうかが、患者定着率に直結する。
クリニック・薬局M&Aで売り手がやるべき準備
売却を検討しているクリニックや薬局の経営者が準備すべきことを整理する。
財務データの整備。直近3年から5年分の確定申告書(個人)または決算書(法人)を整理する。診療報酬明細や調剤報酬明細も月次で準備しておく。
患者・利用者データの整理。月間の患者数、診療科別の内訳、レセプト件数、単価の推移を一覧化する。薬局であれば処方箋枚数、処方元別の内訳、技術料の推移が重要だ。
施設・設備の棚卸し。医療機器の購入時期、リース残高、耐用年数を一覧にする。内装の減価償却状況、テナント契約の残期間と更新条件も確認する。
スタッフの処遇条件の明確化。雇用契約書、給与体系、退職金規定を整理する。非常勤医師や派遣スタッフとの契約条件も漏れなく。
行政関係書類の整理。保健所への届出書類、施設基準の届出状況、直近の適時調査や個別指導の結果を整理しておく。行政指導の履歴は買い手が必ず確認するポイントだ。
医療M&Aは制度の壁が多く、一般的なM&Aの知識だけでは対応しきれない場面が出てくる。医療法、保険診療制度、薬機法といった専門領域に精通したアドバイザーの関与が、円滑な承継の条件だ。