NDAがなければM&Aは始まらない
M&Aのプロセスで最初に締結する契約が、NDA(Non-Disclosure Agreement / 秘密保持契約書)だ。CA(Confidentiality Agreement)と呼ばれることもあるが、内容は同じである。
売り手が自社の財務情報や顧客リストを買い手候補に開示するには、その情報がどう扱われるかを法的に担保する必要がある。NDAはそのための契約だ。M&Aにおける秘密保持契約がなければ、売り手は安心して情報を出せず、買い手は案件の良し悪しを判断できない。交渉の入り口に立つための前提条件と言っていい。
なぜM&AのNDAは通常の取引より重要か
一般的なビジネスでもNDAは日常的に取り交わされる。だがM&AにおけるNDAの重要性は、通常の取引とは次元が異なる。
漏洩の影響範囲が桁違いに大きい。「あの会社が身売りを考えている」という情報が市場に出回れば、従業員の退職、取引先の離反、競合の攻勢を同時に招く。売り手企業の事業価値そのものが毀損される。
開示する情報の質と量が圧倒的に多い。M&Aの検討では、過去数年分の決算書、主要取引先との契約条件、従業員の給与データ、事業上のノウハウなど、通常は外部に絶対に見せない情報を大量に開示する。
買い手が競合他社である可能性がある。同業他社がM&A候補として名乗りを上げるケースは珍しくない。NDAを締結していても、得た情報を自社の競争戦略に転用するリスクはゼロにならない。
この3点が、M&AのNDAを慎重に設計すべき理由だ。
NDAの主要条項を一つずつ解説する
秘密情報の定義
NDAの核心は「何を秘密情報とするか」の定義にある。定義が曖昧だと、漏洩が起きた際に「その情報はNDAの対象外だ」と反論される余地が生まれる。
M&AのNDAでは、以下を秘密情報に含めるのが標準的だ。
- 財務情報(決算書、月次試算表、資金繰り表)
- 顧客・取引先に関する情報(取引先リスト、契約条件、取引実績)
- 技術・ノウハウに関する情報(製造工程、ソフトウェア仕様、営業手法)
- 人事情報(役員・従業員の氏名、報酬、雇用条件)
- M&A検討の事実そのもの(交渉の存在、条件、進捗状況)
特に見落とされがちなのが最後の項目だ。「M&Aを検討していること自体」が秘密情報であることをNDAに明記しておかないと、買い手候補が第三者に「あの会社と交渉中だ」と話してしまうリスクが残る。
秘密情報のマーキング(「Confidential」の表示)を義務づける条項を入れるかどうかも検討ポイントになる。マーキングがなければ秘密情報として扱わないという規定にすると、口頭で伝えた情報が保護対象外になる場合がある。M&Aでは口頭のやりとりも多いため、「口頭開示の場合は開示後○日以内に書面で秘密情報である旨を通知する」といった補完規定を入れるのが安全だ。
目的外使用の禁止
開示された情報をM&A検討以外の目的で使用しないことを定める条項。「M&Aの検討・判断」という目的を明確に限定し、それ以外の一切の使用を禁止する。
同業他社が買い手候補である場合、この条項の実効性が問われる。開示された顧客リストや価格戦略を自社の営業活動に流用されても、それを立証するのは極めて困難だ。だからこそ、開示する情報の範囲と段階を売り手側が管理するしかない。
開示範囲の制限
秘密情報を開示できる範囲を定める。M&Aでは以下の関係者への開示を許容するのが一般的だ。
- 買い手企業の役員および検討に直接関与する従業員
- 弁護士、公認会計士、税理士等の外部専門家
- M&Aアドバイザー・仲介会社
開示を受けた関係者にもNDAと同等の秘密保持義務を負わせる旨を明記する。グループ会社への開示を許容するかどうかも、買い手が大企業の場合には論点になる。
有効期間
NDAの有効期間は2〜3年が一般的。M&Aの検討期間に加え、交渉終了後も一定期間は秘密保持義務が継続する設計にする。
有効期間の起算日は「NDA締結日」とするのが通常だが、「秘密情報の最終開示日」を起算日とする設計もある。後者のほうが売り手にとっては保護期間が長くなるため有利だ。
損害賠償・違約金
NDA違反時の損害賠償請求権を定める。実務上、情報漏洩による損害額を正確に算定するのは難しいため、あらかじめ違約金額を定めておく方法がある。
違約金条項を入れる場合の金額は、案件規模にもよるが100万〜500万円程度で設定されることが多い。ただし違約金が高額すぎると、買い手候補がNDA締結を躊躇するため、バランスが求められる。
M&A特有の注意点
交渉決裂後の情報取り扱い
M&AのNDAで最も重要かつ見落とされやすいのが、交渉が決裂した場合の情報の取り扱いだ。
M&Aの交渉は成立しないことのほうが多い。交渉が破談になった場合、買い手候補が保有している売り手の情報をどうするか。NDAには以下のいずれかを定めておく必要がある。
- 返還義務: 開示された資料をすべて返還する
- 廃棄義務: 開示された資料およびコピーをすべて廃棄し、廃棄証明書を提出する
- 残存義務: 法令上の保存義務がある場合を除き、廃棄または返還する
デジタルデータの場合、バックアップサーバーに残存する可能性がある点にも注意が必要だ。「合理的に可能な範囲で」という限定をつけつつ、廃棄の対象にデジタルデータのコピーも含む旨を明記するのが実務的な対応になる。
ノンネームシートとNDAの関係
M&Aの情報開示は、「ノンネームシート → NDA締結 → 企業概要書(IM)の開示」という段階を踏む。
ノンネームシートとは、売り手企業を特定できない範囲で概要をまとめた資料のこと。業種、地域、売上規模、譲渡理由などを記載するが、社名は伏せる。買い手候補がノンネームシートを見て興味を持った段階でNDAを締結し、その後に社名入りの企業概要書を開示する。
この順序を守らないと、NDA締結前に企業名が漏れるリスクがある。仲介会社を通じている場合はこのプロセスが管理されるが、直接交渉の場合は売り手自身が情報開示の順序を徹底管理すべきだ。
競合他社が買い手候補の場合
同業他社がM&A候補として名乗りを上げた場合、NDAだけでは情報保護に限界がある。以下の追加対策を検討すべきだ。
クリーンチーム条項。買い手側の検討チームを、日常業務と無関係な担当者(たとえばM&A専門部門)に限定する。営業担当者や事業部門の責任者には情報を開示しない旨を定める。
段階的開示。最初から全情報を開示するのではなく、交渉の進捗に応じて開示範囲を広げる。LOI締結前は財務データの概要のみ、LOI締結後にDDとして詳細データを開示する、という段階的アプローチだ。
スタンドスティル条項。NDA締結後一定期間、買い手候補が売り手の株式を取得したり、敵対的な行動を取ったりしないことを約束する条項。上場企業のM&Aで使われることが多い。
NDAの雛形を入手する方法
M&AのNDA雛形は、以下の方法で入手できる。
経済産業省の「秘密情報の保護ハンドブック」。163ページ以降に業務提携検討時のNDA雛形が掲載されている。M&A専用ではないが、ベースとして十分使える。無料でダウンロード可能だ。
M&A仲介会社のテンプレート。仲介会社に案件を依頼すると、その仲介会社の標準NDAが提供される。仲介会社ごとに内容が異なるため、自社に不利な条項がないか確認する姿勢は忘れないこと。
M&Aマッチングプラットフォームの所定書式。TRANBI、バトンズ、M&Aサクシードなどのプラットフォームでは、プラットフォーム独自のNDAが用意されている。手軽だが、プラットフォームの利用規約に紐づくため、条件変更の余地は小さい。
弁護士への作成依頼。案件の特性に合わせた個別のNDAが必要な場合は、弁護士に依頼する。費用は5万〜15万円が相場だ。競合他社との交渉や大型案件の場合は、弁護士作成のNDAを推奨する。
いずれの雛形を使う場合でも、自社の状況に合わせたカスタマイズが必要だ。雛形をそのまま使うと、開示する情報の範囲や有効期間が自社の実態に合わない場合がある。
NDA締結の実務フロー
M&AにおけるNDA締結の標準的な流れは以下の通りだ。
STEP 1: ノンネームシートの提示。仲介会社またはプラットフォームを通じて、買い手候補にノンネームシートを提示する。
STEP 2: 買い手候補の関心確認。ノンネームシートを見た買い手候補が関心を示したら、NDA締結に進む。
STEP 3: NDA案の提示。買い手側(または仲介会社)がNDA案を提示する。売り手側は内容を確認し、必要に応じて修正を求める。
STEP 4: NDAの締結。双方が合意した内容で署名・押印。電子契約サービスを使うことも増えている。締結までの所要期間は1〜2週間。
STEP 5: 企業概要書(IM)の開示。NDA締結後、売り手の社名入りの詳細情報をまとめた企業概要書を買い手候補に開示する。
この順序を一つでもスキップすると情報管理上のリスクが生じる。「NDA前にとりあえず社名だけ教えてほしい」という要望には応じないのが原則だ。
NDAを軽視した場合に起きること
NDAを締結しない、あるいは内容を精査しないままM&Aを進めた場合、以下のリスクが現実になる。
情報漏洩による企業価値の毀損。M&A検討の事実が従業員や取引先に伝わり、退職や契約打ち切りが発生する。これは売り手の交渉力を著しく弱めると同時に、事業そのものの価値を下げる。
競合への情報流出。買い手候補が交渉を打ち切った後、得た情報を自社の競争戦略に活用する。NDAがなければ法的に追及する手段がない。
交渉決裂後のトラブル。情報の返還・廃棄義務がNDAに定められていなければ、買い手候補が売り手のデータを保持し続けることになる。
NDAはM&Aプロセスの中では地味な契約書だ。だが、これが機能しなければ、その後のLOIやSPAの交渉自体が成り立たない。M&Aの成否を左右する最初の契約書として、丁寧に向き合うべきだ。